御由緒
御由緒
河野通次の来島と彦島十二苗祖
河野通次は人皇第51代平城天皇の子孫、三位中将大江正房の摘子で伊豫水軍の祖・越智高縄城主河野通清の末裔で伊豫勝山城主でありましたが人皇第七十七代後白河天皇御代保元元年保元の乱(1156)に藤原頼長と共に崇徳上皇と結び天皇方と戦い白河殿の夜襲に惨敗した通次は残党の園田一覚、二見右京、小川甚六、片山藤蔵、柴崎甚平と率いて西奔比の彦島に逃避して隠棲農夫漁夫を装い再起を謀って居りましたが朝に興り夕に亡びる武士の生活に無常を感じ農耕漁釣に浮世を捨てたのであります。
それから二十有余年後、植田治郎、岡野将監、百合野民部、和田義信、登根金吾、富田刑部が来島して住むようになり彦島開拓の祖となりました。これを「彦島十二苗祖」と云っております。
それから二十有余年後、植田治郎、岡野将監、百合野民部、和田義信、登根金吾、富田刑部が来島して住むようになり彦島開拓の祖となりました。これを「彦島十二苗祖」と云っております。
十二描祖墳墓の行き方について
地図
口碑伝説
光格殿と彦島八幡宮の発祥
舞子島より現地へ遷座
仲哀天皇御駐蹕聖蹟の碑と霊木弓立の松
人皇第十四代仲哀天皇(193)は容姿端正身丈十尺に及び体格は自ら人を威圧する感あらせ給ふ。
天皇即位二年三月九州は日向、大隈、薩摩地方に蟠居せる熊襲の僻地を利し皇威に叛くの報いに接し、天皇直に舟師と率いて遠く九州の地へ御親征の議決し給い、聖駕を穴門豊浦に進め給う。神功皇后は天皇の勅に依り、御後を追われ七月五日豊浦津に来りて宮室を興し熊襲平定の策を譲り給へり。天皇即位八年、計畫全く整い春正月船を筑紫に南下の途上筑紫の豪族伊都縣主祖五十跡手と云う者、天皇の御船を穴門の引島の原(現彦島八幡宮所在地)の地に奉迎、八尺瓊、白銅鏡、十握剣を献じて戦勝を祈り、征虜の辛酸を慰め奉れり。天皇大いに其の志を嘉し給い「伊蘇志」の名を忠勤を賞で給う。(日本書記仲哀記)
天皇即位二年三月九州は日向、大隈、薩摩地方に蟠居せる熊襲の僻地を利し皇威に叛くの報いに接し、天皇直に舟師と率いて遠く九州の地へ御親征の議決し給い、聖駕を穴門豊浦に進め給う。神功皇后は天皇の勅に依り、御後を追われ七月五日豊浦津に来りて宮室を興し熊襲平定の策を譲り給へり。天皇即位八年、計畫全く整い春正月船を筑紫に南下の途上筑紫の豪族伊都縣主祖五十跡手と云う者、天皇の御船を穴門の引島の原(現彦島八幡宮所在地)の地に奉迎、八尺瓊、白銅鏡、十握剣を献じて戦勝を祈り、征虜の辛酸を慰め奉れり。天皇大いに其の志を嘉し給い「伊蘇志」の名を忠勤を賞で給う。(日本書記仲哀記)
此の時天皇の御弓を立て掛け給いし松を「霊木弓立松」と云っております。現在その松の古株と石碑があります。其の後天皇は、橿日宮(香椎宮)に行宮を定め給い、鋭意、熊襲親征に力を注ぎ給いしも成果はかばかしからざる内、俄に陣中に病を得させ給い、橿日の宮に崩御遊され給いき。皇后は大臣、武内宿禰と議って其の喪を秘し皇軍の志気を保ち天皇の素志を続ぎ給い、船路遥に新羅の本城を衝き遂に熊襲の後路を経ち、九州を洽て平定なし給へり。社頭に、英邁果敢なる仲哀天皇の蹕を駐め給へる聖地を持つは当宮又、彦島の誇りなり。
彦島のいわれについて
彦島という地名は、その昔に日本書紀の仲哀記に「引島」とある。
歌人源俊頼朝臣(1124~?)の「袖中妙」(しうちゅうしょう)にも「ひくしま」と読んでいる。
吾妻鏡(あずまのがかみ)(1260~1266)に初めて「彦島」とあり、源平盛衰記(げんぺいせいすいき)(1250~)に「長門の国彦島という所に城を構えたりこれをば引島とも名づけたり」とあって「彦島」とも「引島」ともいっている。
島は一時豊前領であったが、元和六年(1620)長府藩主毛利秀元と小倉城主小笠原忠政の協議によって、長府領であった「門司」と小倉領であった「引島」とを交換したともいわれ、その後、文久年間(1861~1863)に毛利藩主は「引」は武事に忌むとして「彦島」に改められた。
歌人源俊頼朝臣(1124~?)の「袖中妙」(しうちゅうしょう)にも「ひくしま」と読んでいる。
吾妻鏡(あずまのがかみ)(1260~1266)に初めて「彦島」とあり、源平盛衰記(げんぺいせいすいき)(1250~)に「長門の国彦島という所に城を構えたりこれをば引島とも名づけたり」とあって「彦島」とも「引島」ともいっている。
島は一時豊前領であったが、元和六年(1620)長府藩主毛利秀元と小倉城主小笠原忠政の協議によって、長府領であった「門司」と小倉領であった「引島」とを交換したともいわれ、その後、文久年間(1861~1863)に毛利藩主は「引」は武事に忌むとして「彦島」に改められた。
引島と彦島
引島
古代は、関門海峡は、門司と下関の間は陸続きで、下の方に小さな穴があいていて外海と内海の潮が行き来していた。
いわば洞穴(ほらあな)のような状態で、それで穴の門と書いて、「穴門」と呼んだ。日本書紀の仲哀記にも「穴門の国 引島」と記載されている。後に山口県の西半分を長門の国というようになりますが、それは、この「あなと」が「ながと」になまったのだと云われている。
約千八百年前、九州に向われるため長府の豊浦宮を出発された仲哀天皇と神功皇后がのお船が穴門にさしかかると、不思議な事に下関と門司の間の山が突然海に落ち込んで水路が出来たといわれている。
いわば洞穴(ほらあな)のような状態で、それで穴の門と書いて、「穴門」と呼んだ。日本書紀の仲哀記にも「穴門の国 引島」と記載されている。後に山口県の西半分を長門の国というようになりますが、それは、この「あなと」が「ながと」になまったのだと云われている。
約千八百年前、九州に向われるため長府の豊浦宮を出発された仲哀天皇と神功皇后がのお船が穴門にさしかかると、不思議な事に下関と門司の間の山が突然海に落ち込んで水路が出来たといわれている。
このとき、海に落ちた下関と門司の間の山は、激しい急流に押し流されて西へ流れ一つの島になった。ちょうどそのありさまが、海峡を作るために山が引きさかれたように見えたので、そひくしまの島を「引島」と名づけたそうである。